島秋人は友達からも先生からも低能児、劣等性生と言われ続け、さまざまな原因から性格がひねくれ、荒々しくなり、人にも嫌がられてとうとう少年院にも入れられてしまった。
しかも、二十四歳のときに泥棒に入った先で争いになって殺人を犯し、死刑囚となった。
 小・中学校を通じてただ一回だけ褒められた経験があった。その先生は中学校の時の美術の先生で吉田先生といった。その先生を懐かしく思って、島は刑務所から手紙を出した。返事の手紙の中には、懐かしい先生の言葉とともに、吉田先生の奥さんがつくった短歌が三首添えられていた。
それが契機で彼は短歌を作り出し、毎日新聞の「毎日歌壇」でも賞をとるほどになった。
 彼の死後に出された『遺愛集』という歌集の序文に、毎日新聞の短歌の選者だった窪田空穂さんは「純良で無垢の気分が滲み出ていて、微笑を誘われるものがある。自身の人生を大観し、現在の心境を披瀝した大きな歌がある。そうした歌を詠むと、頭脳の明晰さ、感性の鋭さを思わずにはいられない」と書いている。
どんなにダメだと言われる人間でも、みな無限の可能性を持って生まれてきていて、自分の内部にあるいいものを引き出すきっかけさえ与えられれば、それを契機にして芋づる式に開花することを、私たちに事実を持って痛烈に示しているといえる。

 ウェイトリー著『自分を最高に活かす』に、次のような話がある。
石切りを仕事とする家庭に生まれた青年が、大学進学適性検査の成績もよく入学を許可されたが迷った。
なぜなら、近所では誰もが石切りの仕事をしており、子どもはみな親と同じ仕事に就くのが当たり前だったからである。
大学に行かずに家にとどまって石を切っていた息子を、父親はある日大学のキャンパスに連れて行った。
管理事務所ビルの正面階段に立って、「お前が見ているこの石は、この大学を建てるのに私が切ったものだ」
と息子の肩に腕を廻して言った。さらに父親は続ける。
「自分はいい仕事をしてきたと思う。仕事に満足している。私は石切りだ。ずっとお前を見てきたが、お前は石切りには向いていない。石切りになる必要はないのだよ。なりたいものになればよい。自分が本当に好きなこと、本当に望むことを見つけるのだ。もっと違う生き方ができる。立ち上がって、自分の道を行くのだ」
 親がある年齢になった子どもにしてやるべきことの中で大切なことは、子どもが本当に好きなことを見つける手助けと、勇気を持って突き進む後押しをしてやることだと思う。